18:27
昨日、あ〜ちゃんと吉祥寺の温野菜でごはん食べた。
あ〜ちゃんのお気に入りメニュー「じゃが辛」が、私もスーパー気に入ったため、今度自宅で作ってみるためのメモ。
・じゃがいも
・イカの塩辛
・マヨ
・ネギ
これだけ。じゃがをレンチン、他の材料を全部乗っける。終了。激ウマ。
This is a tumblelog, kinda like a blog but with short-form, mixed-media posts with stuff I like. Scroll down a bit to start reading, or a bit more to read more about me.
昨日、あ〜ちゃんと吉祥寺の温野菜でごはん食べた。
あ〜ちゃんのお気に入りメニュー「じゃが辛」が、私もスーパー気に入ったため、今度自宅で作ってみるためのメモ。
・じゃがいも
・イカの塩辛
・マヨ
・ネギ
これだけ。じゃがをレンチン、他の材料を全部乗っける。終了。激ウマ。
ほぼ日刊イトイ新聞を最近こまめに読んでます。
糸井重里さんが6月22日の更新で書かれた文章の引用です↓
————-
「わぁ、この言い方、うれしいなぁ」
という表現を見つけました。
『イベんとう』のときの感想なんですけどね。
その方、Tシャツを頼んでくれたらしくて、
「定額給付金の正しい使い方だと満足しています」
と書いてあったんです。
ここまでだけでも、十分にうれしいんですけどね。
さらに、そこに続けて、
「生活必需品ではないけれど、ぜいたく品でもなく、
だけどやたらうれしい。」と記されていたんです。
ぼくは、そこのところ、くり返し読んでしまいました。
「生活必需品ではないけれど、ぜいたく品でもなく、
だけどやたらうれしい。」
ぼくがつくりたいモノ、やりたい仕事、育てたいこと、
そういう全部が、こういうことだったんだ!
この表現にぴったりのことが出来ているのか、
不安な部分もないわけじゃないのですが、
そういうふうでありたいと思っていたんですよねー。
実現してきたし、できるはずの理想だと思うんです。
これから先、考えたりつくったりするとき、
しょっちゅうこのことばに照らし合わせようと思います。
「生活必需品ではないけれど、ぜいたく品でもなく、
だけどやたらうれしい。」
Masakoさん、こんなことばを見つけてくれて、
ほんとうにありがとうございました。
「必需品」であろうとし過ぎたりすることも、
「ぜいたく品」の魅力に近づき過ぎることも、
ぼくらには、たぶん出来ないとは思うんです。
でも、「だけどやたらうれしい」については、
もっと欲張っていってもいいと思っています。
もう一度、ペーストしちゃおっと。
「生活必需品ではないけれど、ぜいたく品でもなく、
だけどやたらうれしい。」
これからも、そう言われるようにがんばります。
今日も、「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。
ごゆっくり、あちこち眺めていってください。
————-
私もそうだ!私の好きなものはみんなそうだ。
服も、デザインも、アートも、全部そうだ。
そういうものが、誰かの行動を起こしたり、気持ちを起こしたりするものだって信じている。
そういうものを作りたい。
「からだ」
恥ずかしい話だが、私はしょっちゅう身体を悪くする。日常的な頭痛とか、梅雨時期に痛みMAXのヘルニアとか、かなり貧弱な消化器官とか、意味不明な上に割と頻繁な発熱とか。セーシン的にはかなりタフな気分でいるんだが…
よく病院にもお世話になる。先月も、ひと月の間に2回熱を出して、渋々病院へ行った。
医師が私を診察して、カルテと問診も参考に、結果を教えてくれる。
「あ〜サイトウさん、こうなってますね。これこれこうなんですよ」と。
「そうなんですか。」と、私は答えた。
この状況が変だな、と感じたのがついさっきである。初めて知らされて「そうなんですか」と受け止めてしまう、つまり、自分の内側に対して全く自覚的でなかった。自分のことであるにも関わらず、お医者さんという自分の外部の存在からの診断を貰わなければ、どんな状態なのかも判らない。「自分」というのは限りなく遠い。
「人間が唯一、直接見る事が出来ないのは自分だ」と、あらゆる本に書いてある。鏡は正像ではないから、自分の目で見下ろせる本当の皮膚なんて、全体の半分以下。「顔」という「自分」を意識させるだろうパーツも、到底見ることができない。
半ばカンで、私は「自分」を認識しているとしか思えない。自分の内側のことも外側のことも、実はよく判っていないのである。「自分」が「自分」だと意識しているものの大部分を占めるのは「イメージ」に過ぎない。
その、「イメージに過ぎない」ものをどのようにして、確実な触感として獲得していくのだろうか。予備校時代のセンセーだった川崎昌平さんは、Web正論の記事でこんな風に書いている。
「庭の隅には水場が用意されている。烈暑に耐えかねる日には、そこで一浴びする。脂ぎった表皮が濡れて、照りつける陽光を受けて瞬く間に熱を帯び、水滴に汗が濁る。すると不思議なことに、幽かな大気の蠕動すらも察知できるようになる。そよとも吹かぬはずの風の中に、緩やかな空気の流れを覚えるのである。(中略)研ぎ澄まされた僕の五感は自然をつぶさに伝えてくれる。冷房の効いた空間ばかりに居座って、そのくせたまさか外に出て暑さにうだり苛立ち、ワイシャツを汗でしとどに湿らせながら、やれ地球温暖化だの、環境問題がどうのと文句を言う連中には、到底達することの出来ぬ境地である。夏は暑くない。涼を導く自然の力は四季を通じて群を抜く。そこに気がつけないから暑いと感じるのである。」-「ネットカフェ難民でもいいじゃないか」より
昌平さんの触感の見つけ方は極めて素直で、「暑い日差し」と「水浴び」による刺激を用いた方法である。引き合いに出された快適な空調の中で過ごす人々もまた、その部屋から出た途端の肌と外気の温度差によって、自分の輪郭を得たのではないだろうか。自分の目では見下ろせない部分まで。
双方の輪郭に起きていることは同じで、身体の表面への刺激である。ここでは温度差が刺激にあたるが、絶えず皮膚を刺激し続け身体の輪郭を意識させるという点で、衣服も機能は同じである。暑さ・寒さを和らげ身を守るための手段であったはずの衣服が、実際には身体への刺激(言い換えれば、緩やかな攻撃?)を与え続けている。もはや、衣服が単に「身体を守るもの」という言葉では説明し切れないことが明らかである。
(以下ホリュー)服を着て人前に立つということは、実はあの、診察室でのやりとりによく似ているのかも知れない。自分でコントロールできているようでできていない、結果としてなにかしらの服を身にまとった自分を、他人とか社会とか呼ばれる外部に診察してもらう。そこで初めて発見されることや、問題や、助言がある。
卒制が間に合わず、自分の展示スペースだけ、からっぽ。
…という夢を見て「うっわあああああああ!」となって起きた。昨日の朝。
早とちり過ぎ、てかビビり過ぎw
このプレッシャーが卒業まで続くのかよ!イヤーーーン!!
そうもいってられないので、とにかく本を読むことから始める。
暇つぶしで読書をするときはサクサク読めるのに、卒制関連の本は「ちゃんと読まなきゃ!」という緊張感からか、どうにも読み進めるペースが遅い。元々、本を読むのが苦手ということもあるけど。
良い機会なので、以前読んで感激した本なども読み直して、もう一回感激したい。
…と思うけど、はたしてそれって可能なのか!?
「はじめまして」の感動って 再現できるものかな…
読み直し中
■鷲田清一「ひとはなぜ服を着るのか(NHKライブラリー(96))」(東京、日本放送出版協会、1998年)
これはウマイ!!!!
too darn hot (via vaneska~tHOmz)